スポーツドライビング、ハイスピードドライビングをする上で、こんなことを目にしたり聞いたり読んだりしなかっただろうか。

  • 荷重をかけることでタイヤのグリップを増やそう
  • ブレーキングで前に移った荷重を横に移動させてコーナリングをしよう
  • 横に移った荷重を後ろに移動させてトラクションをかけてコーナーを脱出しよう

消しゴムに力をいれずに紙をこすってもほとんど抵抗もなく、鉛筆の字は消せないが、消しゴムを紙に押し付けるとゴムの抵抗も感じるし、鉛筆の字も消える。
なるほどたしかに荷重をかけることで摩擦総量が増すことは間違いないようだ。

ブレーキングでタイヤのグリップが増すというのであるならば、ブレーキは強く踏み続けてハンドルを切ればフロントタイヤの摩擦が最大化して、そこを軸としてクルッと車は旋回しそうなもの。
しかし、決してそんなことにはならない。
その操作では、ブレーキングで前に移った荷重を横に展開移動させることはできないのだ。

それを解決する説明のために、タイヤの摩擦円というものが存在する。
ある一定方向に100%グリップを使ってしまうと他の方向に進ませるグリップが無くなってしまうために車は旋回できないというのだ。

車を旋回させるためには、ハンドルを1切ったらブレーキを1緩め、10切ったらブレーキを10緩め・・・、とすることである方向から別の方向へのグリップ変化をさせるのだ。

ふむふむなるほどわかった。
たしかに現象としてそのような結果が起こっているのは間違いないだろう。

ではやってみよう
→できない

ことそれを自在に起こすとなると途端に難しくなるのである。

ハンドルを1切ったらブレーキを1緩めるというのは概念的には理解できるものの、そもそも操作する対象がハンドルとブレーキペダルで違うためその量を定量化できない。
それをするのに、ハンドルからのインフォメーションからタイヤのグリップを意識して、それに合わせてブレーキをリリースしていくということをするわけだが・・・・

その認知をどのタイヤで行う?

荷重をかける、という発想だと、はじめはフロント2輪だろうか。
それをハンドルを切り始めると、例えば右コーナーなら左フロントタイヤに荷重をかけることになるが同時に右フロントタイヤからは荷重が抜けていく、さらに同時に左リアにも荷重が乗ってくるだろうか。

難しい・・・
というか非常に煩雑である。

意識するべき対象のタイヤが一瞬のコーナリングの最中に目まぐるしく移り変わってしまう。

摩擦円での説明では一つの円で摩擦を示していながら、実際はタイヤ4本それぞれでタイヤの摩擦が増えたり減ったりしているではないか。
4輪の摩擦とブレーキペダル操作量を同時に並列的に足し算引き算する、というのは算盤有段者でも暗算するのに何ミリ秒で演算できるというのだろうか。

これは至難の業である。

そう、やはりたしかに現象としてそのような結果が起こっているのは間違いないのだが、実際にその結果を生むのに取るアプローチの説明がシーケンシャルで手続き型過ぎる。

多くの人は、人間は同時に多くを処理するマルチタスクができると考えられているかも知れないが、実は人間はシングルタスクをシーケンシャルに処理し、それぞれの処理を寸断して一つ一つを小さな単位に細切れにして順繰りに処理しているに過ぎないのだ。

そのことがスポーツドライビング、ハイスピードドライビングの理解を難解なものにしている。

このように既存のドライビングテクニックは、起こった結果から行うべき手段・手続きを順繰りに解説するものとなっており、確かに起きたこと行うことに対する説明は正しく、一見するとそうあるべきだという技術解説にはなっている。
がしかし、人間とはそれを実際行う場合にそういった認知行動は行えるように作られていないのだ。

プロのレーシングドライバーによるドライビング解説も同様である。
彼らも自分が行っている行動、技術について、やはり上記のような結果から分析される、そうなっているであろう操作の説明をするだろう。

間違いではない。
実際にそうなっているのだから。
でもその説明している操作ですら「結果そうなっている」ことは説明できているが、どのようにそれを行っているのかは説明できていないのである。

もちろんシートポジション、ハンドルの回し方、ペダルの踏み方、シフト操作といった"枝葉"の説明はするだろう。
「シートで荷重が移動するのを感じて」とか「ハンドルからタイヤのグリップを感じて」という挙動の感じ方の説明はするだろう。
しかしその枝葉は、どのように車両を感じ、どのように車両を動かすのかといった意思決定という"幹"がどのようなものかの説明にはなり得ないのだ。

自動車の挙動の説明にはなっているが、それを起こすドライビング方法を説明はできていない。
プロドライバーも既存の理論に引きずられてしまって、実際自分で感じていることのありのままを言語化できていないのだ。

例えるなら、国語の授業で文法や文章の構成などを習って完全に習得したとする。
それで果たして名作小説を生み出せるだろうか。
よほどの文才が無ければおそらく無理だろう。
むしろ名作である必要すらないかも知れない。
それこそショートショートすら書けるものではない。
世界背景や登場人物、序章から物語の帰結にいたる伏線、文体、あらゆる情報を把握して一貫性をもたせて最後まで書き切るのは難しいどころの話ではないだろう。
書き方を知ることと実際に書くということ、題材を決めまとめて記述するといった文才・センスの会得とはそれだけの大きな溝が存在する。

既存のドライビングテクニック論は、それだけ物理現象の説明ツールとして優秀なのだが、どう感じてどう動かすかというセンスの磨き方、努力の仕方は伝えられない。
そういったジレンマを抱えているのである。

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