ども、おれです。

(※SNSから来た人へ、ほとんど転載だけど最後に追記してるのでそちらもどうぞ)

ま、色々ありますね。

補償しないなら自粛に全面的に協力できない
これは当然です。
生きていけないんですから。
病気で死ぬのもこわいけど、飢えて死ぬのもこわい。
騒ぎが落ち着いたあと、事業がズタボロになっていたらその先食っていけないんですから。

これを「当事者意識がない」と断ずるのは、もうしわけないけど想像力がちょっと足らないんじゃないかな。


ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

マルティン・ニーメラーという牧師で反ナチ運動家の言葉だそうです。

自分は自粛して我慢してる。
できている。
やらない、できないのは甘え。

そう思っているのなら、その考え自体があなたの首をどんどん絞めていくでしょう。

みんなも当然頑張っている。
もしかしたらあなたが頑張ってる以上に頑張っているかもしれない。
すでにもう土俵際、親指一本で踏ん張ってるのかもしれない。
でもこれ以上できない、できる環境にない。
はじめからもう崖っぷちで生活している人だっている。

だから補償してくれ、と声をあげている。

そしてその声が、
今はまだ頑張れているけど1ヶ月先、3ヶ月先、半年先まで頑張れるかどうかわからない、
そんなあなたのその将来の時の助けになる。

だから「恥」と思わず大声で叫んでほしい。

補償しろ!と。

自助、共助、公助といいます。
自助でできなかったら共助、共助でできなかったら公助。
そのような順番、階層だと思っていませんか?

違います。

自助も、共助も、公助も、です。
みんな一人で生きているわけではありません。
自助・共助・公助は同時並列で行わないと間に合いません。

自助も頑張る。
共助も頑張る。
公助を受けるための声明も頑張らないと。

明日は我が身。

 

p.s.
とある知人がFbで呟いていたので転載

『「国に期待したってしょうがないんだから、批判するより各自でやれることやる方がいい」ってのをよく見かけるけど、こういうのって大人として社会を運営する気もその能力もありませんっていう表明に見えるんだよな。
各自でやれることやるのはアタリマエ。』

キツイ言い方だけど、おれは完全に同意見。

公を動かすことも国民の権利であり義務であるということです。

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